東雲寺の歴史

東雲寺の歴史

曹洞宗龍谷山成就院東雲寺(そうとうしゅう・りゅうこくざん・じょうじゅいん・とううんじ)は、開創年が不詳ながら、成瀬と金森の境付近の辻にある光専坊に石塔「光専神」が建立されたのが天文元年(1532)で、その法主が東雲寺住職であること、また、『新編武蔵風土記稿』によると「東雲寺 字奈良谷にあり、寺領六石三斗の御朱印を賜りしは慶安元年(1648)7月7日なり。その文に先規に任せてたまるよし見えたれば、その地を領せしはそれよりも先なることしるべし。曹洞宗にて小机村(横浜市港北区)雲松院末寺なり。龍谷山成就院と号す。開祖僧・龍谷は天文5年(1536)5月27日に寂せり。その頃は今の境内の向かいの地にありしが、明眼宗珠、当寺に在住のとき今の地に移りしとなり。よりて宗珠を開山とせり。この僧は寛永8年(1631)正月5日寂す。本堂は八間半に七間、西向なり。本尊は華厳の釈迦、木の坐像にして、長一尺ばかり」と記されていることなどにより、以下のように推測されます。

東雲寺は、横浜市港北区小机の雲松院(うんしょういん)三世龍谷性孫さま(りゅうこくしょうそん、1536年寂)によって、初め南成瀬三丁目の成瀬城(現在、城山公園)近くの「寺屋敷(てらやしき)」という地名が残る場所に龍谷山成就院として開創されますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めによって北条氏が破れると、成瀬城は廃城、成就院も一旦廃絶したものと思われます。しかしその後、江戸時代に入って、元和6年(1620)に雲松院六世明岩宗珠さま(みょうがんそうしゅ、1631年寂)によって、現在の成瀬4丁目(旧成瀬奈良谷戸)の地に龍谷山東雲寺として再興されました。

そこで東雲寺では、龍谷性孫さまを開基、明岩宗珠さまを開山さまと仰ぎ、今日まで成瀬の人びとをはじめ多くの方々のご支援をいただいて、歴代の住職が正伝の仏法・禅の教えを説き弘め、現在地に移ってからでも約400年にわたり法灯を護ってまいりました。

この間、三世松山南茂さま(しょうざんなんも、1660年寂)は、東雲寺の末寺として西成瀬2丁目(旧成瀬三又)に三枝山観性寺(さんしさん・かんしょうじ)を開き、八世哮山嶺盤さま(こうざんれいばん)は成瀬の皆さまのご協力を得て享保13年(1728)に等身大の地蔵尊を建立、さらに延享2年(1745)に大梵鐘を鋳造するなどされています。