道元禅師の教え

曹洞宗の教え

氏素性、容貌などで差別してはいけない

道元禅師の主著である『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中に「礼拝得髄(らいはいとくずい)」の巻というお示しがあります。そこには次のような『涅槃経(ねはんぎょう)』の経文引用と、それを承けた道元禅師の“差別を許さない”教えが記されています。

釈迦牟尼仏のいはく、「無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。たゞ般若を尊重するがゆゑに、日々に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天花を散じて供養すべし。日々三時、礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり」。

しかあれば、若樹若石もとかましとねがひ、若田若里もとかましともとむべし。露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。むかし、野干を師として礼拝聞法する天帝釈あり、大菩薩の称つたはれり、依業の尊卑によらず。

「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のいはく」以下の「 」の中は経文引用で、仏さまのお説法です。これを意訳すると、無上の〈さとり〉について説き示して下さるお師匠さまに会おうと思うなら、氏素性(うじすじょう)を云々したり、容貌(ようぼう)で判断したりしてはならない。欠点をあげつらい、その行いについてあれこれ考えてはならない。ただただ仏教の智慧、〈さとり〉の世界を尊重するために、日々に百千両の黄金で供養し、天人の食事を差し上げて供養し、天界の花を降らせて供養すべきである。毎日毎日、朝昼晩の三時に礼拝し、敬い尊んで、けっして嫌悪(けんお)・倦怠(けんたい)の心を起こしてはならない。このように修行する中で、必ず〈さとり〉の世界を目の当たりにするのである。私(お釈迦さま)は求道の志を立ててよりこのかた、このように修行して、今、この上ない〈さとり〉の世界を目の当たりにしている、ということになります。

以上のような経文引用の後、「しかあれば」以降、道元禅師は自らのお考えを述べておられます。では、そのご提唱の部分も意訳してみましょう。

そうであるから(我が身を捨てて、初めて聞くことができた仏教の教えを、後の世の人のために樹木や石などに書き記したという仏典の「物語」があるから)、若し樹木や岩石であれば樹木や岩石に、若し田畑や郷里であれば田畑や郷里にも、仏教の教えを説いて下さいと求めるべきです。むきだしの柱にも教えを乞い、垣根や壁にも質問して究め尽くすようにしなさい。

その昔、野山のキツネをお師匠さまとして礼拝し、仏教の教えを学んだ帝釈天(仏教の守護神)がいました。帝釈天がそのキツネを「大菩薩(大いなる仏道修行者)」と言ったということが伝えられています。

これは、(きっと過去世において何か悪いことをしたから、その「宿業」によってキツネになったのだろうなどと考え)なぜあなたはキツネなのか、お前はどうして石なのか、なぜ樹木なのかなどと考えてばかりいて、せっかく説かれている正しい仏教の教えを真剣に聞くこともせず、坐禅修行も行わないならば、〈さとり〉の世界を目の当たりにすることはない、ということなのです。

ところで先に「氏素性」と意訳した「種姓(しゅしょう)」ですが、実はこれは「生まれ・家柄・家系・カーストなど」を意味する言葉です。この言葉は、仏教の歴史の中で長い間、インドの「ダリット」 「不可触民」として差別・抑圧されて来た人びと(現在のインドにも約1億6千万人いるされています)などについての、差別的な説明の折に繰り返し使われて来ました。日本では被差別部落の人びとなどが引き合いに出され、差別的に解説されて来ました。この経緯を踏まえると、今後、この「種姓」という言葉は前提なしには使用できません。

しかしご覧のように、道元禅師はこの「種姓」「生まれ・家柄・家系・カーストなど」による差別を明確に否定され、参師聞法や坐禅を中心とする修行を勧めておられます。

つまり他者の「宿業」についてあれこれ言い、「生まれ」による「身分」のようなものがあって、それが尊いとか賤しいとか言うのは大間違いだというのです。そして「氏素性」「容貌」などで差別するならば、正しい仏教の教えを説いて下さるお師匠さまに出会うことなどできないし、たった一度の「私」の人生をまっとうすることができないとお示し下さっています。

他ならない「私」自身の一度きりの人生です。

あなたは、どのように生きたいですか。