道元禅師の教え

曹洞宗の教え

おのれ いまだ度らざるさきに 一切衆生をわたさん

道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「発菩提心(ほつぼだいしん)」の巻の中に、イジメや差別をなくすためとても大事だと思われる「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という教えがあります。

これは自分が〈さとり〉を得て救われる前に、まず他の人びとが救われるようにするという、菩薩(ぼさつ)の行(ぎょう)、坐禅修行者の行いを端的に示したものですが、『修証義(しゅしょうぎ)』第四章「発願利生(ほつがんりしょう)」にも取り入れられていますので、お経の本などでご覧になって、すでにご存じの方もおられると思います。

『正法眼蔵』「発菩提心」の巻からいくつか引用し、「自未得度先度他」の教えを改めて学んでみましょう。

菩提心(ぼだいしん)をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに一切衆生(いっさいしゅじょう)をわたさんと発願(ほつがん)しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。

以下に意訳を試みます。〈さとり〉を求めるとともに世の人びとを救済しようという心を起こすというのは、自分が〈さとり〉を得て救われる前に、すべての人びとはじめ生きているあらゆるもの(衆生)を救おうという誓願(せいがん)を立て実践することです。外見がみすぼらしく取るに足らないと思われるような人でも、この自未得度先度他(じみとうどせんどた)の志を立てて行動する人ならば、もはやその人は、すべての人びとにとって、信頼すべきすぐれた指導者なのです。

「発心(ほっしん)」とは、はじめて「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法(けんぶつもんぽう)し、さらに菩提心をおこす、霜上加霜(そうじょうかそう)なり。

発菩提心とは自未得度先度他の心を起こすことです。これを初菩提心と言います。この心を起こしてから後は、たくさんの仏さまに出会い、供養を捧げてお仕えし、仏さまを目の当たりにして教えをお聞きし、その教えを実践修行します。そしてさらに菩提心を起こすのです。霜の上に霜を加えるように、菩提心に菩提心を重ね、修行の上にさらに修行実践を加えるのです。

衆生を利益すといふは、衆生をして自未得度先度他のこゝろをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心、われにあらず、他にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海をかけばたちまち甘露となる。

すべての人びとをはじめ生きているあらゆるもの(衆生)に利益と幸福を与えるというのは、その衆生に自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を起こさせることです。その衆生に菩提心を起こさせるという菩薩の行の中で、自らが〈さとり〉の世界を目の当たりにしても、それでもって自らが仏になろうなどと思ってはなりません。たとえ成仏するだけの福徳をもたらす善行の報いが、自らに十二分に具わっていたとしても、さらにそれを一切衆生が〈さとり〉をひらいて仏になる(成仏)ために振り向けるのです。

この自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心は、自分のものでなく、他のものでもありません。やって来たものでもないけれども、この菩提心を起こしてから後、この自未得度先度他の心をもって修行を続けるとき、大地に手を触れれば、この大地すべてが黄金となり、大海の水をかきまわせば、海水はたちまち甘露の水となるのです。

ここで黄金となり甘露の水になるというのは、大地や大海がそのように変化するなどと言っているのではありません。自未得度先度他の心で修行する菩薩(坐禅修行者)が、修行の中で目の当たりにする〈さとり〉の世界が光り輝いている様子や、その〈生〉が深まって、菩薩の生き方としてとても充実している様子を言っているのです。

この菩薩の行い、自未得度先度他の生き方の中に、他の人を蔑(さげす)み貶(おとし)め、排除・無視する、差別やイジメなどが入り込む余地などはまったくありません。

道元禅師は、このような衆生救済の教え、差別やイジメをなくす教えをお示し下さっています。

他ならない「私」自身のたった一度の人生です。

あなたはどのように生きてみたいですか。