「あふひ草」は、お釈迦さまの教えに逢うことができた身という意味と葵草との掛詞になっています。京都加茂神社では葵草を神草として、葵祭りの折にはおみこしや衣装に飾りますが、これを葵草を掛けて神事を行うということから、「葵草」は「かけて」という言葉を導き出す言葉でもあるという解釈もなされています。
「かけても」は、「葵草を掛ける」という意味と、「心にかけて。いつも。少しも。いささかも」などという言葉本来の意味との掛詞になっています。
「踏まめや」は、反語「や」の意味を汲んで「踏み行うことがあろうか、誓ってありはしない」ということになります。
さらにここで『修証義』にも引かれている『正法眼蔵』「帰依三宝」や「出家功徳」の巻のお示し、「人身得ること難し、仏法値うこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて」「已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり」を思い起こして、通釈すれば次のようになります。
なんと嬉しいことであろうか。私は既にお釈迦さまのみ教えに出会うことができたのだから、このみ教えにしたがってこの人生をまっとうしたいと思う。お釈迦さまのみ教えにしたがわずに、外の道をいささかも踏み行うことなどあろうか、誓ってありはしない。