道元禅師の教え

曹洞宗の教え

いのちのある限り 好んで愛語すべし

道元禅師の著述『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻の中に〈愛語〉の教えがあります。この菩提薩埵とは、古代インドの言葉「ボーディ・サットヴァ」の音写語で、観音菩薩、地蔵菩薩などと言うときの、この菩薩のことなのですが、実は坐禅を中心とする修行を行い、利他行を実践する修行者の意味があります。この巻には、その修行者の菩薩が、人びとを仏道に導き入れ救済する四つの方法が説かれており、その一つが〈愛語〉の教えです。

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。

意訳を試みましょう。

愛語(親愛の心を起こさせる言語)というのは、あらゆる人びとや動物などの生きものに対して慈しみ愛する心を起こし、心にかけて愛の言葉を口にすることです。すべてにおいて非理非道な荒々しい言葉を使ってはいけません。

世の中には「いかがですか」と相手の安否を問う礼儀があります。仏道修行の上では「お大事に」という辞去の際の挨拶があり、「ご機嫌いかが」と健康状態や近況などをたずねる作法があります。

「人びとを慈しみ念うこと、まるで赤ん坊に対してのように(衆生を慈念すること、猶、赤子の如し 法華経)」という思いをもって語る言葉が愛語です。

徳がある人には誉めて、徳のない人には憐れんで戒めの言葉をかけるべきです。愛語を好むところから、次第に愛語の習慣が増して行きます。そうであれば、日ごろ気づかず見えてこなかった愛語も目の当たりに現れます。この世で命がある限り好んで愛語すべきです。そうであれば、生まれ変わり死に変わりしても、愛語の修行に精進努力して怠ることがないでしょう。怨みに思う敵を降伏させ、君子を和解させるにも、愛語を使用することが根本となるのです。

面と向かって愛語を聞くと、喜びが顔に表れ心は楽しくなるし、面と向かわず人づてなどの間接的な形で愛語を聞くと、肝に銘じ魂に深く刻み込まれるような思いをするものです。よく知るべきです。愛語は愛心より起こり、愛心は慈悲の心をその本としています。

一度発せられれば覆すことはできないとされる天子の命令ですが、家臣が愛語をもって天子に翻意を促し、ついにその命令を変えさせたという故事があります。愛語にはこれほどの力があることを学ぶべきです。ただ相手の能力を誉めるだけが愛語ではありません。

というような意味になります。

道元禅師は、言葉をたいへん大切にし、仏教の教えの真髄を言葉で言い表し、言い尽くして正しく伝えることに、生涯、心を傾け続けられた方です。

その道元禅師が、すでに見て来たように「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり」、あるいは「慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり」などの教えをお示し下さっています。

「好んで愛語する」ということは、菩薩(利他行を実践する坐禅修行者)にとって、とても大事な愛語の修行を実践するということです。ここにおいては、意識的に差別発言をするなどということは絶対にあり得ないでしょう。それどころか不注意な発言をしたり、他者を傷つけるような言葉を口にしたりするようなことなども、そこに入り込む余地はまったくありません。

道元禅師は、私たちに〈愛語〉を実践するようお勧め下さっています。

他ならない「私」自身の一度きりの人生です。

あなたは、どのように生きたいですか。